システム設計は性善説と性悪説のどちらに基づくか
フラスコ代表、安田です。たまにあまり親しくない人から「安田さんって人を信じられないんですか?」みたいなことを言われるんですけど、フラスコのようなシステムを設計するときに、人は性善説で見るのか性悪説で見るのかということを、ふと書きたくなったので書いてみます。
人を信じればあっさり死ぬのが起業の世界
まず最初に言っておきたいのは、あまり親しくもないのに「人を信じなさい」と強く言ってくる人は、信じてはいけないということです。家族や親しい友人に言われるならわかりますけど、出会ってさあこれからビジネスをしようかというときに、なぜ私のマインドを性善説モードに変えようとするのか。
もうおわかりですよね。きっと何かを売ろうとしているんですよ、その人。それも、強く疑われたら不都合な仕組みになっている何かを(笑)。基本的には私が初めて誰かとお会いするときは、一定の警戒心を持っていることは事実です。でもそんなの当たり前で、全てを頭から信じてたら、あっという間に死にますよ。
起業支援、資産運用、自己啓発、コーチ、コンサル、セミナー、コミュニティ、ネットワークビジネスに政治宗教・・・どのジャンルでも、おかしな人というのは存在します。大企業が相手なら大丈夫かというと、そんなこともありません。それが人間の社会というものです。
システムは性善説で作れば破綻する
コミュニティ・プラットフォームのシステムを設計するときも、「人間は善だから誰も不正なんてしない」という前提で考えて作れば、それはもうザルのような仕組みが出来上がります。フラスコで言えばポイントや委託料、オンラインサロンのところで不正をする人が、必ず出てくることでしょう。
仕組みを作るときには、悪用したら得をするという部分を徹底的に潰さないといけません。自分が悪意を持ってこれを使うなら・・・と常に考えるので、あまりに性格が良いと仕組みは作れないかもしれませんね。だから「安田さんは性格が悪いですね」なら、そうかもなって素直に思えます。性格、良いでしょ?(笑)
大切なのは、大多数の人の本質は善であっても、悪いことをする人というのは必ず存在するということです。また、金庫に鍵をかけておかないとタダの通りすがりの人を泥棒にしてしまう可能性があるということです。常に善か悪なんていうことはなくて、その間を揺れ動くのが人間ですから。
性悪説で作れば停滞する
では、性悪説に基づいてガードをガチガチに固めた仕組みを作るとどうなるか。おそらくは拡散力がなくなって、人が集まらなくなることでしょう。そんなガチガチに監視されるような仕組みなんて、使う側からしたら嫌ですからね。ある程度は遊びの部分というか、ゆるさがないといけない。
例えばフラスコだと、委託料のところで数千円くらいを「ちょろまかす」ことくらいはいくらでもできると思います。不正ではありませんが単純に、入会金なしで入会ボーナスが2,000ポイントなので、入ってイベントに参加してすぐ退会するというだけでもフラスコに2,000円分の打撃を与えることができます。
あるいは何人かで結託してポイントのやりとりをしたり。中にはそんな人もいるだろうなと思っていて、実際に全くいないわけではないのですが、でもそれを防ぐために守りを固めるためのコストは高くなります。まあ一定割合でそういう残念な人もいるでしょうけど、当面は見つけたら強制退会というルールだけを作って放っておくのが良いかななんてことを考えているんです。
プラットフォームの「暴走」
そういう些細なことには目をつぶり、発生した場合にインパクトが大きいところだけを押さえておきます。そういう考え方で仕組みを整えているんですね。細部まで守りが完璧なわけではないにしても、致命的なダメージだけは受けないように工夫をしています。
もう一つ私が常に恐れているのは、フラスコが制御不能になることです。システムのバグとかそういうことではなくて、狙い通りに人が人を呼んで一気に拡大していくときに、様々な問題が同時多発的に発生すると。それでどうにもならなくなるなんていうシナリオは、それこそいくつでも思いつくことができます。
そんな全体の「破綻」を防ぐためにどうすれば良いか。システムだけではなく、人だったりルールだったり、考えつく限りのあらゆる手立てをしています。それでも大きくなったら、大掛かりな犯罪のターゲットにもなるかもしれませんし、知恵比べは続きますね。
人は基本的に善だが・・・
そもそも、人間には善も悪もないんです。過去のどの戦争を見ても、善と悪の戦いなんて私の知る限り存在しません。善と善、正義と正義の戦いなんです。「ああ、それはやっちゃダメだよなあ」と思うことはあっても、まあ当事者にとってみれば気持ちはわかるな、という争いが世には溢れているんです。
結論なのですが、人は基本的に善だと考えることは問題ないのですが、中には悪意を持って行動する人が紛れ込んでいると考えることは重要です。善である人にそういう悪意を持たせないための仕組み、強い悪意を持っている人からも致命的な被害を受けないための仕組み、それが求められます。
起業家であれサラリーマンであれ、そういう健全な「職業的猜疑心」を持つことが、プロとして必要なことだと思います。誰にも迷惑をかけないなら、無条件にかつ徹底的に人を信じてみる生き方も、まあ止めはしませんが。少なくとも起業においてその姿勢だと、かなり心配ですね。