「学ぶ」「教える」「成功する」。誰もが「信用の器 フラスコ」を持ち、育てて、つながる10万人のコミュニティ・プラットフォーム

信用の器 フラスコ

「お金」に対する価値観(10万字の長すぎる自己紹介32/50)

長期的な視点であなたの夢を目標に変えて実現する、人生計画マスターコーチの安田修です。

この記事は、人生計画フォーラムのコミュニティ・プラットフォーム・システムの開発に関するクラウドファンディングプロジェクトが19日後の7/7(金)までに200万円の目標額を達成するために毎日2,000文字以上、書いています。前回から始まった価値観編、今回はお金についてです。お金なんていらない、なんて思ったことは一度もありません。

金持ちでもなければ貧乏でもない

これまたつまらないことに、私が育った環境はめちゃくちゃ貧乏だったわけでもなく、ものすごいお金持ちだったわけでもありません。北海道の片田舎で生まれ育った私は、父親は公務員で安定した給料を頂いており、母親は半分趣味みたいな感じで外回りの仕事をしていましたが、実質的には専業主婦みたいなものでした。

生活は決して派手ではありませんでしたが、私自身の感覚としてはお金に困ったことはありません。両親は無駄遣いもしませんでしたから、旅行とか外食の記憶はあまりありません。毎日、朝食を食べて学校に行き、帰ってきて17:00を少し過ぎたくらいに自宅で家族揃って夕食をとっていました。今思えば、ちゃんとしたものを食べていましたね。

お小遣い帳と郵便貯金

かなり早い段階から、おそらくは小学生の低学年からすでにお小遣い帳はつけていました。小遣いやお年玉はほとんど使わず、おもちゃの金庫を買って貰ってそれにお金を貯めていましたね。たまに金庫から出してお金を数えると、なんとなく楽しい気分になったものです。貯めることに特に目標はなくて、ただ貯めるのが楽しかったんです。

中学生くらいのときでしょうか、あるとき思い立って「郵便局(今のゆうちょ銀行)の定期貯金に全財産を預ける」と言い出しました。今では考えられませんが、当時はバブルの兆しが出てきていた頃で、定期貯金でも金利が数%もあったんです。確か20万円預けたら、一年で21万円以上になりました。なんだこれ、すごいって思いましたね。私が金利というものと出会った瞬間です。

お金がなかった学生時代

人並みに貧乏を経験したとしたら、大学から新入社員の頃ですね。仕送りだけでは食べていくのがやっとで、財布に数十円しかお金がない、みたいなことも何度かありました。お金があるうちに食材を買ってきて自炊し、作った同じものを二日も三日も食べ続けるみたいな生活をしていましたね。チャーハンとかを大量に作るんです。

とはいえ、親に「お金がない」と言えば追加の仕送りもしてもらえたでしょうし、アルバイトもしていました。居酒屋に警備員に塾の講師とそれなりに稼いだのですが、「このお金は生活で使わずに、旅行に使おう」と決めていたんですね。なので働いても働いても生活は別に楽にはなりませんでした。苦しいという感覚もありませんでしたけど。

サラリーマンになった最初の年も、初任給が低くてなかなか厳しかったですね。でも、二年目になると給料がグッと上がり、それ以来、生活をしていくというレベルではお金に関して苦労はしていません。あ、起業してからしばらくは手元のキャッシュがみるみる減っていきましたから、ちょっと怖い思いをしましたが。

投資は平気だが、消費は怖い

ある程度お金に余裕が出てからは、「毎月5万円」とか「ボーナスで20万円」というようにルールを決めてまた貯金をはじめました。新入社員のときも、給料が少ないながらも毎月2〜3万円は貯めていましたね。結局、お金というのはいくらあっても足りないし、どんなに少なくても生きていけるんです。だから天引きで貯金をするのが一番です。

そうやって貯金をしていくと気がつけばある程度まとまった資金ができますから、社会人二年目にはそれを株などに投資して運用を始めました。やっぱり身銭を切って投資をすることで、学びは大きくなりますから。そのうち投資にはかなり慣れて、不動産への投資もそうですが、借金をして投資をするのもそんなに怖いという感覚はありません。

むしろ借金をして消費をするマイホームの購入などには強い恐怖感があります。良い服を買ったり、高いものを食べたりするときもかなりドキドキしますね。それが投資として計算できない限りは、ムダなお金はできるだけ使いたくありません。基本的には、ケチなんだと思います。

お金は感謝の現れであり、点数みたいなもの

起業をしてから、お金に対する感覚は変わりました。服も食事も、投資なんだと思えるようになってきたんですよ。投資として考えられる範囲が広がったというか、ムダなお金の範囲が狭くなったというか。長期的な視点で考えて回収可能であるお金は、生きているんだと思います。ランチを奢るのはほとんどの場合は得だ、というように。

仕事や個人の投資の経験を通じて、今はお金がものを買うために必要なものだという意味合いはどんどん薄れています。どちらかというと単なる数字というか、「感謝の気持ちをやりとりするためのツール」というような感覚ですかね。汚くもなければ、絶対的な存在でもなくて、単なるツール・概念だと思っています。それでは、また。