「学ぶ」「教える」「成功する」。誰もが「信用の器 フラスコ」を持ち、育てて、つながる10万人のコミュニティ・プラットフォーム

信用の器 フラスコ

「本体」でカルチャーショック連続の日々(10万字の長すぎる自己紹介18/50)

長期的な視点であなたの夢を目標に変えて実現する、人生計画マスターコーチの安田修です。

この記事は、人生計画フォーラムのコミュニティ・プラットフォーム・システムの開発に関するクラウドファンディングプロジェクトが33日後の7/7(金)までに200万円の目標額を達成するために毎日2,000文字以上、書いています。システム子会社から東京の財務部門に異動した私は、そこでまた壁にぶち当たります。転職したみたいなものですからね。

東京での最初の仕事は

社会人5年目、財務営業を希望してFA宣言までした私に、「まずはここで修行せよ」ということ(憶測)で財務のミドルオフィス部門への辞令が下りました。最初に与えられた業務は企画業務で、部の執行を司る中枢と言えばかっこいいですが、浮いた球を全て拾うと言いますか限りなく総務に近い、つまり雑用的なことも含む仕事でした。

特に企画担当の若手は雑用のウェイトが高くなります。5年目くらいだとまだまだ若手ですし、下には誰もいないので、システム子会社という「別世界」からやって来た私は、ここで雑用ごとを一通り経験するような形になりました。部の目標数値を周知して、営業から上がって来た数字を集計したり、鼓舞するような資料を作ったり。

定期的に行う会議では、事務方を担当します。レイアウトを設定し、膨大な資料を作成・印刷して配布し、必要であれば根回しをし、段取りを全て整えます。関係各部との面倒ごとも、とりあえず企画が窓口になります。業務上は財務の知識はあまり必要なく、良くも悪くもとてもサラリーマンらしい仕事です。

VLOOKUPの壁

日本生命「本体」の同期や後輩たちをみて痛感したのは、彼らがやはり優秀であるということです。財務について専門的な知識を持っているのは当然ですが、すごく複雑なエクセル表やマクロ、アクセスのプログラムなどが普通に日常業務に使われています。システムから来た私が、システム面で太刀打ちできないんですね。

「ホストのデータベースからダウンロードしたデータのこっちの表からブイルックで引っ張って来てですね・・・」「ちょっと待って、ブイルックってなに?」「え?!VLOOKUPって知らないんですか?やばいですよそれ!」みたいなやりとりを何回もしたのを覚えています。総合職のほぼ全員がエクセルの達人で、驚いてしまいました。

カルチャーの壁

あとは、転職をしたようなものなのでカルチャーの壁にも驚きました。「それは君が考えることじゃない」と上司ではなくて同僚から言われて、頭の中がはてなマークで一杯になりましたよ。ああ、ここでは課長が考えるべきことと若手が考えるべきことが明確に分かれていて、そこを超えていくことは原則としてないんだなと。

基本的にはNOと言ったり、反論をすることも求められていないのだということもショックでした。課長も部長に何か意見を言うときにはかなりの準備をして臨んでいますし、部長も役員に対して逆らうようなことはあればちょっとした事件です。役員もその上の役員には、社長には・・・。鉄の規律、これが組織というやつなのかと。

もちろん、こんなことは大企業のサラリーマンであれば当たり前のことです。システム子会社ではそこが割とゆるく、下からの意見も尊重する(一方で、上は本音では苦々しく思っていたのかもしれませんが)カルチャーというか雰囲気でしたから。でもそんな当たり前の規律が、自分の頭で考えたい私には居心地が悪かったのは間違いありません。

財務の仕事をしたいのに

企画業務はやりたかった財務のスキルが身につく仕事ではありませんでしたが、会社で仕事をするために必要なスキルやノウハウ、情報がものすごく効率的に集められると感じていたので、「1年だけなら、ベストかもしれない」と思って続けました。実際、この下積みの1年があるからその後の仕事ができたのだと、今でも感じています。

やりたい仕事には確実に近づいているのは感じていました。しかし全く畑違いのSEを4年間、修行で来たミドル部門のそのまた下準備のような下積みを1年間。いつになったらやりたい仕事ができるのか。結婚もしましたし、その先には起業も見据えていた私には、焦りがありました。

もう一年の打診に直談判

そんな中、「もう1年企画業務をやって欲しいと思っている」という打診がありました。上記のような焦りがあった私は、この打診をしてきた上司に対して明確に「できません。どうしても財務の仕事がしたいと考えています」とNOを突きつけます。言うまでもありませんが、こんな態度の若手が評価されるのはとても難しいことなんです。

それでも、当時の私は自分のやりたいことをやって、その環境下で能力を伸ばすことを最優先していましたから、評価は二の次でした。課長も困ったような残念なような表情でしたが、企画の課長というのは力がありますしその人は人格者でしたから、私のわがままを容れてくれました。もちろん、様々な偶然が味方したということもあるでしょう。

そして私は、6年目にしてようやく、晴れて財務の仕事に携わることになりました。6年目といえば課長補佐という役職がつく頃で、それなりに責任のある仕事をしなくてはいけない時期です。良い経験はさせてもらってはいるけれどもまだ走り始めてすらいない、とやっぱり焦りはありました。それでは、また。