長期的な視点であなたの夢を目標に変えて実現する、人生計画マスターコーチの安田修です。
成功の形って、人によって様々ですよね。でも人生計画フォーラムでは、仮に成功を「人生を選べる」ようになることだと定義しています。それが全ての人にとって「正しい」とまでは言えないにしても、なぜそう考えるのかは明らかにしておく必要があるでしょう。
幸せや成功の定義は価値観による
当たり前ですが、幸せとか成功なんてものは、これという一つの定義ができるものではありません。それは、価値観が人によって違うからです。充実した仕事をするのが幸せだと感じる人もいれば、1日中のんびりできるのが幸せだと感じる人もいるでしょう。経済的に豊かになったら成功かというと、幸せだと感じていなければそうは言えません。
私は人生における成功とは、少なくとも幸せであることが条件になると考えます。「彼の人生は、成功したが不幸せだった」というふうに使われる成功とは、単に経済的なあるいは社会的な成功のみを指しており、人生の成功を判定しようと思ったらそれはあくまでその人の主観によるものでなければならないと思います。
もっと言えば、今際の際に「幸せだった」と心から思えればその人生は成功だと言っても良いでしょう。経済的な成功や社会的な成功は、人生の成功には必ずしも必要ではありません。かといって、全くそれらの成功なしで心から幸せだと感じられるかというと、現代社会においては極めて難しいと思いますが。
5年前の自分を救うため
このような考え方に至ったのは、かつて経済的には割と恵まれたサラリーマン生活を送っていた自分が、幸せだとは思えなかったからです。給料は高く福利厚生にも恵まれていて、社会的な立場もあり、労働時間も(やや長いとは言え)限られてはいたものの、ある意味で自分は「奴隷のようだ」と感じていたんです。
それは、選択の自由がなかったからです。小さい頃から言われたことを守って、まじめに勉強をして良い大学に入り、良い会社に入って仕事を頑張る。そうすれば幸せになれると信じていたのですが、サラリーマンはかつてほど恵まれた環境にはありません。理不尽なことでメンタルをやられ、消えていくサラリーマンはむしろ増えています。
そのこと自体が悪いというわけではありません。問題は、そのことに気づいた人がその環境から脱することができない、つまり「人生を選べない」ことです。幼い頃からの刷り込み、一種の洗脳によって「サラリーマンを辞めたら野垂れ死ぬ」と思い込んでいますからね。サラリーマンになるために作られた、ロボットみたいだなって思うんです。
人生はリスクで溢れている
それでも、サラリーマンの人生が安全ならばまだしも耐える価値はあるのかもしれません。しかし寿命が100年になり、国家財政が破綻する中、会社にしがみつく人生は長期的にはむしろリスクにあふれています。単一の線路を走るしかない列車の正面に岩があることがわかっても、その時にはもう手遅れというわけです。
起業が素晴らしいとか、会社なんて辞めてしまえなんて言いません。結局、岩に当たる確率自体は大企業の方が小さいかもしれませんからね(笑)。ただ、複数の線路を選べたり、自由に舵が切れたりするならば、岩に当たるときの納得感が全く違うということなんです。死に臨んで「これで良かった」と思うためには、そのことこそが重要です。
岩に当たるか当たらないかはさほど問題ではないんです。その道を自分で選んだかどうか、それが問題です。奴隷制の問題は、経済的なことや危険ではなく、選択の余地がないことです。長い歴史を通じて人は本能的に自由すなわち選べる人生を渇望し、戦い続けてきたんです。経済的に豊かになればなるほど、自由の価値は高まります。
何より、人は飽きる
そして最後に重要な要素として、「人は飽きる」ということがあります。「ないものねだり」という言葉があるように、人は仕事がないときは仕事を求め、充実した仕事があれば余暇を求め、余暇が溢れれば世の中への貢献を求め、貢献意識が高まればまた別のものを、というように常に欲望が移り変わります。価値観すら常に変わります。
そうであるならば、どんなに経済的な豊かであろうとも、仕事を選べないということは主観的には不幸ではないでしょうか。大企業であっても、常に知的好奇心にあふれた仕事をし続けることは難しいですし。その反対に、するしないを含めて仕事を選ぶことができ、住むところすら選べる人生は、「人は飽きる」ということに対する唯一の対抗手段になるのではないでしょうか。
っと、どこまで行っても主観の話かもしれません。ただ私は、成功という状態を定義するとき「人生が選べる」ことだと直感的にも強く思いますし、どんなに考え抜いてもその確信は深まるばかりなんです。そうじゃない、そんな人生はご免だという人はそれで良いです。それが、選んでいるということだと思いますから。それでは、また。